変見自在?偏見自在

2016年01月23日

1995年に縁があって全日本F3選手権の中継番組をGAORAで担当した。
当時は4年連続で外国人ドライバーにタイトルを奪われ続けていて、その年もスペイン人の若手ドライバーが全レースで優勝してタイトルを奪っていった。

いったい日本人若手ドライバーは何をしていたのか。
よほどいいドライバーがいなかったのか?
実際はそんなことはなかった。

前年にF3デビュー戦優勝を決めた道上龍のほか、
立川裕路、井出有治、土屋武士、加藤寛規、シーズン途中のデビュー戦で3位表彰台に上った脇阪寿一。
その中にF3での6シーズン目を迎える本山哲もいた。

今を思えば超豪華メンバーのラインナップで皆が日本のレース界を支えるトップドライバーとなった。

そんな彼らも当時は上を目指す若手ドライバーとして必死で、これまでまともに国内中継されたことがなかった実況解説付きのF3中継番組に大きく興味を示してきた。

地道に取材して全員のインタビューを番組内で放送したりもして、おかげで彼らにはテレビディレクターとして顔を覚えてもらえた。

その2年後、縁があって某公共放送BS-1での全日本ツーリングカーレース中継に携わることになった。

星野一義、関谷正徳らのベテランドライバーや服部尚貴、黒沢琢弥らの中堅に混ざって
本山哲や道上龍などの若手がワークスマシンを託されていた。

開幕戦では番組オープニングのタイトルバックを撮影する必要があって。
道上選手には頼んでヘルメット片手にピットロードを歩いてもらったりもした。
着実にステップアップしてゆく彼らに交じって自分も同じ舞台に立てたことがうれしかった。

そんな1997年全日本ツーリングカー選手権の最終戦でちょっとした事件があった。
タイトル争いをする若手の本山哲に同じくタイトル獲得をかけるベテランの中子修が接触した。
それもヘヤピンのエイペックスで、番組解説の中谷明彦は「これはいけない、中子選手らしくない」とコメントするほどだった。

しかし、ドラマ(アクション?)はこれからだった。
マシンにダメージを受けてスロー走行する本山はピットインせずにコースを走り続けた。
そして、100Rのインサイドを大きく開けてアウトサイドをトロトロ走っていた時の事だった。

本山のアウトサイドのわずかな隙間をなぜか中子は通り抜けようとした瞬間に接触して、中子のマシンは100R外側のスポンジバリアに突っ込んだ。
なんで大きく空いたインサイドを走らずにわざわざ外側をすり抜けようとしたのかはわからない。

ピットリポーターの担当ディレクターをしていたので、先にピットに戻ってきた本山にインタビューをしようと試みたが、マシンがガレージインした瞬間にシャッターは閉じられ、それは叶わなかった。

生放送ではなかったので編集作業にも携わったが、本山車のオンボード映像を見ても本山がぶつけようとステアリングホイールを切るような動作は一切なかった。そこに報復の意図がないことは明らかだった。

中子車のオンボード映像も何度も見直したが中子選手の方からぶつかっていったようにしか見えなかった。
直接本人とは話していないが、中継映像や両車のオンボード映像を何回も見直してそう確信した。

レースでの裁定としては中子に罰金5万円、本山に罰金50万円のペナルティが科せられ、カタチ上は”両成敗”のようになったが、本山は後に行われたフォーミュラニッポン最終戦とGTオールスター戦への出場を停止させられた。

この件で一方的に攻められたのは本山選手の方だった。本山哲は口を噤んで決して反論しなかった。ライセンスを永久剥奪しろという声すら上がった。まるで欠席裁判を見ているようだった。

その後、本山哲はフォーミュラ日本で4回チャンピオンになり、スーパーGTでも3回チャンピオンとなり日本ー速いドライバーの称号を星野一義から受け継いだ。
Fポンでの27勝ポールポジション21回はともに歴代1位。GTでの勝利数も1位タイである。

惜しむらくは海外レース参戦に対して積極的ではなかったこと。ルマン24時間レースには参戦したが、時代が違えばF1やインディカーでも活躍していたに違いない。

2015年、インディカーシリーズでは若干ハタチのアメリカ人ドライバーが初めて表彰台に乗り、アメリカ人表彰台独占を成し遂げた。15歳でUSF2000チャンピオンをとった逸材でチップガナッシが目を付けた。

実質インディカーフル参戦1年目でまだ粗削りとみるか才能のない接触が多いドライバーとみるのか。
ミルクを飲む彼の姿を想像するのは私だけではないと思う。